滋賀県立美術館にて開催されている、川内倫子の個展を見てきました。
川内倫子の写真から伝わってくるメッセージを、今回の展示で初めて体感できました。
個人的な展示を見た感想を2回に分けて書き残しておきます。
これまで
わたくしが川内倫子の写真を初めて見たのは、写真集『うたたね』(2001年, リトルモア)でした。
サッと目を通たの感想は「分からない」ということが確かでした。並んでいる写真が、光の中にあるという印象は強く残っていますが、「これは何を見たということになるのか」ということを理解できなかったのです。
10年以上経て別の場所で写真集『うたたね』と再会したときに、「生と死の対比が見開きに置かれているからそこに注目してみて」と言い添えられて、何が写っているのか少し分かったように思ったことを覚えています(現在はこのときからも5年くらい経過しています)。
しかし、『うたたね』の中に何を見たと言えるのか、自分にはボンヤリした中にあるコアの像を上手く見ることができていない感覚で、打ち震えるような感動は無かったのでした。
結果として、わたくしには川内倫子は難しいという印象が強く残りました。理解できない作品は悪い意味ばかりでは無く、「あれは何だったのだろう」という気持ちが残り続けるという意味もあります。
思い込み?
滋賀県立美術館では「川内倫子 M/E 球体の上 無限の連なり」(会期:~2023/3/26(日))と「川内倫子と滋賀」(会期:~2023/5/27(日))が、別々の展示室で開催されています。
「川内倫子と滋賀」を先に見たのですが、ここで展示されていた写真を何枚か見て、私の中で感じ取れたことがありました。
滋賀の人々を中心に、現在の日本人伝えたいメッセージに重点が置かれているのかもしれない、と思い込んだために生じた感想だったのかもしれません。
大丈夫
わたくしが「川内倫子と滋賀」から受け取ったメッセージは、「大丈夫」です。
もう少し書き加えると、「大丈夫だから、ひとまず落ち着いていこう」というメッセージです。
室内で強く印象に残った作品群が、アール・ブリュットの才能が集う滋賀県の障害者福祉事業所〈やまなみ工房〉を撮影した「やまなみ」(2022)です。
「アール・ブリュット(art brut)」とは、「生(き)の芸術」を意味するフランス語で、「芸術の正規教育を受けていない人が制作した芸術」「現在の芸術潮流に影響されない作品」という意味で解釈され、後に英語で「アウトサイダー・アート」と呼ばれるようになり、「因習的な美術史の文脈化を拒み、管理されていない方法においてその衝動を具現化」した芸術と明確にされています。
アール・ブリュットについて芸術における障害者の表現-アールブリュット・アウトサイダーアート関連展示を通じて-「アール・ブリュット」とは「生の芸術」を意味するフランス語である。その解釈は人によって様々だが、「正規の美術教育を受けていない人による芸術」「既存の美術潮流に影響されない表現」などと説明されることが美術館・アート情報 artscape現代美術用語辞典ver.2.0は、artscapeサイト創設15周年を記念して制作されました。1,581語を収録。2012年9月18日、完全版リリース。
作品はポートレート写真が中心で、プロジェクターで動画も展示されていました。
実際に事業所で作られたアール・ブリュット作品や展示写真にも出てくる印象的なモノも、同じ展示室内に鎮座しており〈やまなみ工房〉が実在することを体感できます。
展示写真は障害者の方々の日々や生活が写し撮られているのですが、川内倫子は「やまなみ」の説明で〈やまなみ工房〉を〈自分が自分であるだけでいい〉場所と書いています。
場所に対する川内倫子の印象が、光溢れる写真で切り取られていて、文字列の説明が無くても「自分が自分でいるだけでいい」場所であることが写真から伝わってきました。
SNSに浸かりきった自分には、「(良い環境があれば)自分のままで大丈夫」という意味で受け取れました。良い環境は誰かから提供されることもあるでしょうし、自分で手を加えたり誰かと一緒に作ってゆくことも多いでしょう。
言葉を尽くして伝えることも、ある場面では大事です。しかし今回の展示では、「見れば分かるでしょ?」というメッセージが大変明確で力強く、受けた影響は大きかったです。
また、前述したように川内倫子の作品を難解な印象でとらえていたため、「この作品から伝わってくるものが確かにある……!」という感触が、印象の氷解を起こしたことも強く自分に作用したと思われます。
生きていくこと、終わること、続いていくこと
「川内倫子と滋賀」の展示でもう一つ大きく印象に残ったのは、座ってゆっくり鑑賞したスライドショーでした。〈Cui Cui〉(2005)です。家族を13年にわたって撮影した作品だと説明があります。
スライドショーには川内倫子の祖父と見える人物が、祖母とそして家族と滋賀で過ごし亡くなるまでの時間が記録されていました。やはり光の中にある写真でありながら、死に向かって流れてゆく祖父と過ごした時間、時間の中にある死に向かう息苦しさと、その先にある生からの解放があり、残された家族の生活は続いていく様子を見たのだと思います。
今日では家族の関係性が様々であることを受容するようになり始めたと感じますが、人間が生まれること自体が人間社会のつながりの中にあって、つながりを全肯定でもなく絶対悪とも断定できず、間で揺れながら生きることを続けていくのだと思えました。
スライドショーで映し出されていたのは、川内倫子にフックした一瞬一瞬でしょうけれど、うれしいときも悲しいときも連綿と続いてゆく「無情さ」が伏流にあって、時間と無情さの中で写真を撮り続けている川内倫子の後ろ姿を感じた展示でした。
その後ろ姿はかっこよくありつつ、「正気と狂気で言うなら、どちらに立っているのか?」という感覚にもなりました。(二元論で答えが出せるなら、苦労などないでしょうけれど)
おわりに
「川内倫子と滋賀」には、毎週日曜日は「木の家専門店 谷口工務店フリーサンデー」!という企画もあり、常設展示を誰でも無料で観覧できました。展示の充実度が高く、川内さんと美術館職員さん、滋賀県のみなさまに感謝です。
美術館のある「びわこ文化公園」には大きな無料駐車場も複数あるので、写真を見たい気持ちがあって日曜にふらりと出かけることが叶う方は、気軽に一度おでかけされてはいかがでしょう。もちろん平日にゆっくり見たい方もぜひ。
2つめのエントリーはこちらからどうぞ。
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