11月の個展に向けて、DMを作成するための写真セレクト。
モニターで見ているだけでは分からなくなってきたため、L版にプリントした。プリントすることで大幅によく見えるようになるとは正直思っていないが、印刷物になることで写真は取り扱えるようになる場面も多くある。
今年6月にナダール京都大山崎で、代表の林さんにアドバイスいただいた写真をどう増やせたかを見つつ、DMに使用できそうな写真についていろいろ検討した。
撮れている感覚は元から無かったが、やはり写真は思うような「夜」は撮れていない。心細くなったが、それでも「夜」の写真はあるので、なんとか個展にこぎつけるしかない。
また、この心細さ無しに個展を開催しても、自分には意味が無いとも思う。
林さんには、「何が写っていれば「夜」と言えるのか、明確にしてみては?」と言われていたと思う。
今も明確に自分が撮る「夜」の写真で、何が写っていると「夜」と言えるのか、よく分かっていない。しかし、今日は端っこの何かは捕まえられた気がしていて、それを書いてみる。「夜」に対してどういう位置から写真を撮っているのか、ということについて。
自分が照らすということ
自分の「夜」と言える写真は、被写体でいうなら光源が写っていない写真のようだ。照明から間接的に照らされている被写体が写っている。そして暗さが写っていること。写真が写る程度には、そばに被写体を照らし出す灯りがあるということになる。
光源が写ってしまうと、北極星のように自分の外に光という希望を求めてしまう形になると考えた。それは光源を希望とするなら、他力本願と言える面もある。
画面外の光源にこだわりたい理由は、自分が光源となって被写体を照らし出していると考えたいからだろう。
これは今春MBSが制作したコミック原作のTVドラマ「アンメット」の影響が大きい。「影を照らそうと灯りを作ると、新しい影ができてしまう。しかし、自分の中に灯りをおけば、影はできない」というような内容を川内先生と三瓶先生が交わしていたシーンが、心に残っている。
夜は人工照明がなければ暗いというか闇しかない。満月の夜は別にして、街灯や車のライトなどが在ることによって、私はフラフラと夜の写真散歩を楽しむことができる。
厳密には自分が灯りになっているわけではないが、自分の写真に写っている私の視線、まなざしは、私によって夜の一部を照らしていると言えそうだ。(暴力的に写すと、「暴く」になるとは思う)
光源を写真の画面外におくか直接光源を写さないことで、自分自身が夜を照らし出す気持ちを前に押し出せるなら、弱くても自分の力で夜を照らし、他の人に明かりを灯すことも、世界のどこかでは誰かに起こっているのかもしれない。
自分でその灯りを観測できなくても、そうだと良いなという気持ちでやっていこうと思う。
(おわり)
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